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DATE : 2025/05/04 (Sun)
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DATE : 2007/04/08 (Sun)
背景
1969年より、小学館発行学年誌の一部(『よいこ』『幼稚園』『小学一年生』『小学二年生』『小学三年生』『小学四年生』)にて連載開始した。いずれも1970年1月号で、当時の作者名義は「藤子不二雄」。1話ごとに完結する短編として執筆。

ちなみに、「ドラえもん」は「ウメ星デンカ」の後継連載だが、新連載の予告カットに「出た!」という机から何かが飛び出てきた絵を描いたものの、その時点ではまだ新連載のアイデアが思い浮かばなかったという。思い浮かばないまま、気分転換に、ドラネコのノミ取りを始めたが、ついに入稿期日になってしまった(正確には、その日までにアイディアをまとめ描き始めねばならなかった)。あきらめかけながら、「わしゃ、破滅じゃー!」と叫びながら階段を駆け下り、娘の起き上がりこぼしがつまづいた瞬間、「ドラネコと起き上がりこぼし」というアイデアが結びつき、ドラえもんが誕生したという(このエピソードは『2112年 ドラえもん誕生』で紹介された)。

その後も連載誌を広げ、1980年頃には8本の雑誌に同時連載していた(#執筆活動と#連載誌参照)。また、テレビアニメやアニメーション映画としても展開している。 1980年からはアニメーション映画の原作として単行本1巻分の長編の執筆を開始、これを大長編ドラえもんと称している。映画にふさわしくスケールの大きな舞台で、のび太が仲間と協力して困難を乗り越え、成長する冒険物語が描かれる。これら大長編はドラえもんの作品群中重要な位置を占めており、このことは作者がこれらの作品に傾けた精力のほどからもわかる。特にのび太ジャイアンは長編においてその(日頃は隠されている)個性を発揮し、このことはこれらの作品の大きな魅力となっている。作者が主に小学生をターゲットにした月刊誌連載という紙面上の制限を離れてキャラクターを縦横無尽に活躍させるためには、舞台として長編が必要であったのであろう。

藤子・F・不二雄が逝去した1996年以後もテレビアニメとアニメ映画の制作は続き、映画の漫画版を萩原伸一(後のむぎわらしんたろう、「ドラベース ドラえもん超野球外伝」の作者)、岡田康則が執筆している。

1996年の時点で、漫画単行本は日本で約1億部が売れ、2000年度末時点で全世界で1億7000万部以上売られている。(全協・出版科学研究所「出版月報」)

また、小学館が2002年から「Doraemon: Gadget cat from the future」という名で原作の日英バイリンガル版を出版している[1]。香港 (HK Ching Win, Culturecom)・台湾 (Asia Pacific Entertainment)・韓国 (Kookmin Books) などアジア各国でも現地語の翻訳版が出版されている[2]。

藤子・F・不二雄本人が執筆した作品は全1345話(短編・中編・長編の合計数)。バケルくんとの共演作品「ドラとバケルともうひとつ」などを含めると全1433話となる(ただしそのうち『空中つりセット』と『さかさカメラ』の扉以外全てと、『空気中継衛星(26巻)』『しずちゃんとスイートホーム(35巻)』『サカユメンでいい夢見よう(36巻)』の後半部分は、アシスタントのたかや健二による執筆)。

第2回(1973年)日本漫画家協会賞優秀賞。[3]、
第27回(昭和57年度)小学館漫画賞受賞。[4]
第1回(1997年)手塚治虫文化賞マンガ大賞受賞。[5]
第23回(1994年)日本漫画家協会賞文部大臣賞。[3]
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DATE : 2007/04/07 (Sat)
何をしても駄目な小学生、野比のび太と、22世紀から彼のもとにやってきたロボット・ドラえもんの日常を描いた作品。典型的なプロットは「のび太の身にふりかかった困難を、ドラえもんから貸し与えられた、あるいは勝手に持ち出した未来の道具(ひみつ道具)で一時的に解決するが、その後その道具を不適切に使い続けてしっぺ返しを受ける(いじめっ子であるジャイアンやスネ夫がこうなる話もある)」というもの(このことは、SF(“すこしふしぎ”な)作品として本作を執筆していた作者の意図を反映しており、当時のSFの唱える "if"(もしも) についての対象を想定した明確な回答であるといえる)。
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